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武蔵野航海記

武蔵野航海記

葬儀場

以前私のブログで「葬儀場」問題を書きましたが、私が今まで書いてきたことが具体的に現れているものなので再度書きます。

東京西郊の私鉄の沿線に行ったときのことです。

駅を降りて商店街を歩いていると「葬儀場建設反対」の垂れ幕がたくさん下がっていました。

駅のまん前の商店街の中心に葬儀場を作る計画があるのです。火葬の設備はなくお通夜や告別式を行うだけの施設です。

葬儀場は車寄せや駐車場を備えるなど道路混雑にも配慮した設計になっており、建築基準法の要件は満たしています。

従って建設許可はすでに下りていて法律上は何の問題もありません。

ところが葬儀会社が区役所に建設着工の届出をした時になって、区の職員が「葬儀場建設に関する指導要綱」を作成しその遵守を葬儀会社に要求したのです。

これは葬儀会社が建設予定地の周辺の住民に説明会を開かなければならないという義務を課したもので、区の職員が勝手に国の法律より厳しい規則を民間企業に課したことを意味します。

葬儀会社は、「区の出した指導要綱は法的な拘束力がない」と主張しています。

指導要綱に法的拘束力がなく葬儀場建設が建築基準法にも違反していなければ、葬儀会社が説明会を開く理由はありません。

ところが葬儀会社は、区の指導要綱を「尊重」して説明会を開いたのです。

この辺から私はこの反対運動に大いに興味を持ち、葬儀会社が主催した住民への説明会にわざわざ電車に乗って聞きに行きました。

葬儀会社は弁護士まで帯同して説明会に臨んでいましたが、説明会を聞きに来た住民は殆どが反対派のようでした。

中にはここの住民ではなく遠方から反対派の応援に来た人もいたのです。

葬儀場は「建設基準法」という国の法律に違反していないので、反対派は法律違反を持ち出すことが出来ません。

そこで「繁華街に葬儀場を作るのは非常識だ。法律に違反していなければ何をしても良いのか」という主張をしています。

「まだ心の整理がつかない」という者もいました。

そして「一方的だ」と葬儀会社の役員の態度・人格を非難していました。

葬儀会社はこの反対運動により建設着工が三年近く遅れていてその間事業を行うことが出来ず大きな損害を受けています。

しかし反対派は自分達の行動が相手に大きな損害を与えていることなど考えてもいないようです。

葬儀会社のほうは、「法律に違反していない」「区の出した指導要綱は法的な拘束力がない」という主張を繰り返していました。

葬儀会社は、建設を強行すれば商店街との溝が埋まらないと判断したのでしょう。

結局反対派も葬儀会社も、法律上の権利義務を裁判で争うのではなく、お互い納得による解決を目指しているのです。

この事件は様々なことを教えてくれます。

まず、日本には「権利」が存在しません。

日本の法律は明治維新にヨーロッパの法律を直訳して導入したものが起源ですから、「権利」と「義務」という概念が基礎になっています。

そしてこの二つの概念はキリスト教の権威によって裏書されているものです。

葬儀会社は隣人の必要とするサービスを提供するために自由に営業できるという法律上の権利を持っているのです。

ところが反対派は「法律に違反していなければ何をしてもいいのか」と法律で保障された権利を真正面から否定したのです。

権利とは本来何の制約も受けずに行使できるものですが、反対派はさらに住民の納得という条件を出して権利を否定しているのです。

反対派の主張は「駅前に葬儀場を作るのは非常識だ」ということに尽きます。

江戸時代中期の石田梅岩は、「物には全てあるべき形がある」と喝破しました。

馬は草を食べるという形があり蚊は血を吸うという形を持っているのと同じように、人は働くという形を持っているとして勤労の精神を鼓舞しました。

この発想は明恵上人の「あるべきようは」と同じで、全ての物は自然の中で本来あるべき場所にいるのが正しいと考えるのです。

この発想は今でも日本人に脈々と生き続けています。

葬儀場建設反対派の頭の中の地図では、駅前にあるべきものは銀行や商店街であって、葬儀場は山影にひっそりとあるべきなのです。

そしてこの「あるべきよう」に反しているからそれを正しくないと感じたのです。

葬儀場反対派は葬儀会社を「誠意がない」と非難していました。

日本人は「誠」という言葉が大好きですが、これは元々は儒教の言葉で、人間の本性を指します。

人間が外界から影響を受けない理想的な状態では、人間の本性と宇宙のルールは一致します。

しかし凡人は絶えず外界から刺激を受けて心が曇っていますから、様々な客観的なルールを守ることによって個人の内心の状態と宇宙のルールを一致させるように勤めなければならないのです。

個人がいくら内心では正しいと思ったことでもこの客観的なルールに合わなければ正しくありません。

このような儒教の「誠」から日本人は客観的なルールという歯止めを外してしまいました。

無欲に考えて得られた結論は、宇宙のルールと一致すると考え、外観から判断できる基準によるチェックなど不要としたのです。

これはまさに「あるべきようは」です。

葬儀場反対派は、葬儀会社が利益を得ようという欲望で心を曇らし、本来あるべき状態とは違うことを行おうとしていると主張しているのです。

そして自分たちは「あるべきようは」に反していないから正しいと思っていて、建築基準法というルールに合致しているということを無視しています。

さらには自分たちの反対が、葬儀会社の営業を妨害し所有権を侵害しているということに無頓着です。

反対派は葬儀場が出来ると「気分が暗くなる」とか「気味が悪い」という表現で嫌がっていました。

しかし、それ以上に自分たちの宗教的感情を的確に表現できていません。

仏教やキリスト教というオースドックスな宗教では遺体はただの物体で、何の価値もなく悪いことを引き起こすわけでもありません。

日本古来の考え方には「死穢」というものがありますが、そういう問題があるのならお祓いをするとか一定の距離をおくとかいう具体的な対策があるべきです。

古代日本でも死穢は身近にあり、これに現実的に対処しなければならなかったので「お祓い」という技術が出来たのだと思います。

だから死人が出た家では「祓い」などの清めの儀式をしてそこに住み続けたのです。

しかしこの葬儀場騒動では実際にこういう検討がなされた様子もなく、ただ「死」という問題に直面するのを避けているだけです。

自分の親や子が亡くなった時も「死穢」を理由に近づかないのでしょうか。

これは江戸時代中期以後日本の知識人が宗教を非合理なものとして否定したために、宗教を真面目に考えなくなった結果です。

しかし一般の日本人が死後の問題に納得した答えを得ているわけではないので、なんとも辻褄のあわない対応になっているのです。

日本人の判断基準は「あるべきようは」で、本来のあるべき場所にいるかどうかが問題なのです。

権利・義務の関係で判断するわけではありませんから法律は飾りのようなものです。

葬儀会社が反対派を裁判所に訴えれば勝てるでしょう。

しかし反対派の判断基準である「本来あるべき場所にあるか否か」という問題に対する結論ではありませんから、敗訴した反対派が納得するはずもありません。

だから裁判などあまり意味がなくその商店街で葬儀場を営むには反対派の納得が必要になってくるのです。

日本でも法律や裁判が有効な分野もありますが、この種の集団間の紛争で「感情」がもつれた場合には裁判は無力です。

だから葬儀会社は裁判所に訴えることをしていません。その結果葬儀場予定地は三年間空き地のままになっています。

この葬儀場だけでなく、住民の反対運動によって公共施設の建設計画が大幅に遅れているケースがたくさんありますが、このために浪費した時間と費用は莫大です。

確固たる基準がなしに話し合いで全てを解決するというやり方は非効率なのです。

今首都圏を巨大地震が襲うことが心配されていますが、被害を少なくするために地震の前後でなすべき公共の事業はたくさんあります。

政府は、大地震が今東京に起こったら死者は13000人になると予想しています。

しかし大正12年の関東大震災の死者は15万人、損害は国家予算の1年4か月分でした。

当時の東京の人口は現在の首都圏人口の十分の一ですから、今地震がおこったらその被害は膨大なものになるはずでとても政府発表の13000人の死者ですみそうにありません。

こういう緊急事態に際して住民の納得を待っていれば避けられるはずの被害も避けられなくなってしまいます。

10年以上前に起こった阪神大震災の時に神戸の下町は大火で大勢の死者を出したが、通りが狭くて消防車が入れなかったのが原因でした。

戦争末期の空襲で焼け野原になった後、朝鮮人など大勢が他人の土地に勝手に家を作りその後も明け渡しをしなかったのです。

神戸市役所は災害を心配して、何度も区画整理をしようとしましたが、他人の土地を不法占拠していた住民が、その違法行為が表面化するのを恐れて絶対反対を繰り返していたのです。

不正を法で正さずに当事者の納得を待っていると必要なことが後回しになり、ついには間に合わなくなる危険があるのです。

以上に説明したように、日本人の行動は、社会や国家を自然物と考える「あるべきようは」という思想、「宗教に対する無知」及び「同じ釜の飯を食う一族」というものでかなり説明できるのです。


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